京都新聞TOP > 文化・文芸・教育アーカイブ > 源氏物語
インデックス

(40)お供も目えさめて、悲しいてしゃあないん   


  御前にいと人少(ひとずく)なにて、うち休みわたれるに、独(ひと)り目をさまして、枕(まくら)をそばだてて四方(よも)の嵐(あらし)を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くばかりになりにけり。

古典セレクション「源氏物語」(小学館、校注・訳 阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男)から一部転載。

 

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語

 須磨に秋風がふいて、胸がしんみり。海からは、ちょっと奥まったところやねんけど、中納言在原行平(ありわらのゆきひら)が「関吹き越ゆる」の歌で詠まはった、黒い浦波の音が、夜ごと、ほんの間近にまで迫ってきてね。こういう田舎の秋て、やっぱし、ほんまにしみてくんねんなあ。

 数えるほどのお供が、みんな寝静まってるなか、ひとり目えさましたはる光君、眠れへん枕の上で、あっちこっち吹きまくる風音きいてるうち、つい湧いてくる涙の海に、枕がぷかぷか浮いてまいそう。起きて、お琴をつま弾いてみると、我(われ)ながら、ぞっとするくらい寂しい響き。すっ、て手え止めはって。

 「恋ひわびて なく音(ね)にまがふ 浦波は 思ふかたより 風や吹くらむ(浦波の音が、恋しいむせび泣きにきこえるんは、僕をなつかしむ都のほうから、風が吹いてくるから)」

 お供のひとらも目えさめて、歌にじーんてなりながら、悲しいてしゃあないん。わらわら起きてきては、そそっと鼻かんでんのん。
 「ほんまに、みんな、どんな気でいたはんのやろ。たったひとり、親兄弟や、ずっと慣れ親しんできたふるさとから離れて、こんなとこまで、僕につきおうて流されてくれて」とか考えたら、もう、たまらへんねんな。

 でも、「あかんあかん、こんなダウナーな僕みたら、みんないっそう落ち込んでまう」て思いなおさはって、たとえば昼日中には、なにかにつけてギャグいうてみんなの気い紛らしたり、適当に、とりどりの色紙をつないでささっと戯れ歌書いたり、珍しい外国の綾織りにいろいろ絵描いたりしはって、それ貼りつけた絵屏風(びょうぶ)なんかチョーきれいなん。

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語
撮影・吉田清貴

 前は、海山の景色、ひとからきかされて、どんなんやろ、て想像しはるだけやったやん。それが、こんな目の前でほんもの見られて、思いもよらへんかった磯の様子とか、めっちゃリアルに描き写さはんの。お供みんな「最近、名人ていわれてる千枝(ちえだ)さん、常則(つねのり)さんとか来てもうて、光さんの墨に色つけてもらいたいぐらいや」て、もどかしがったりして。やさしいて、ぱっと華やかな光君の様子に、もの思いや悩みなんか忘れてまうん。近くにお仕えできるんが嬉(うれ)しいて、四、五人くらい、ずうっとひっついて離れようとしいひん。

 前栽(せんざい)の花がとりどりに咲き乱れて、ええ感じの夕暮れ、海を見わたせる外廊下に出はって、ただ、たたずんだはる光君の、ぞっとなるくらいきれいな立ち姿、こんな草深いとこだけに、いっそう、この世離れしてみえはんの。白い綾(あや)織りのやらこい単衣(ひとえ)の上に、紫苑色の指貫(さしぬき)かさねはって、縹(はなだ)色の濃い直衣(のうし)に、帯はたらんと自然に打ちほどけた感じで、

  「しゃか、むにー、ぶつの、でしー」
  て、名前を唱えてからお経よまはる、その声もまた、神々しいくらい。 

 沖をとおる舟の漁師さんらが、大声でうたいながら漕(こ)ぎすぎていかはる。ほのかなその影が、まるで小ちゃい海鳥が波に漂ってるみたいで、なんとももの寂しいそこへ、夕空に連なって飛ぶ雁(かり)の声が、ちょうど舟の舵(かじ)の音そっくりに重なって。光君、ぼおっと眺めつつ、ついこぼれ出る玉の涙を払おうとする手指の色かたちが、真っ黒い数珠に映えて、いっそう際だったはんの。都に彼女を残してきたお供のものら、こころがふわっと和むん。

  「初雁(はつかり)は 恋しき人の つらなれや たびのそらとぶ 声の悲しき」
  て光君が読めば、お供の良清(よしきよ)は、
  「かきつらね 昔のことぞ 思ほゆる 雁はその世の ともならねども」

  次は民部大輔(みんぶのたいふ)、
  「心から 常世(とこよ)をすてて なく雁(かり)を 雲のよそにも 思ひけるかな」

  最後に前右近将監(さきのうこんのぞう)が、
  「常世いでて 旅の空なる かりがねも 列(つら)におくれぬ ほどぞなぐさむ…お連れとはぐれてしまわはったら、雁かて、寂しいやろになあ」

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語

いしい・しんじ

いしいしんじさん
 1966年大阪市生まれ。京都大卒。主な作品に「麦ふみクーツェ」(第18回坪田譲治文学賞)、「ある一日」(第29回織田作之助賞)など。2009年から京都市在住。

【2018年01月15日付京都新聞朝刊掲載】