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(26)光君も藤壺も、若宮にこころ乱されフラフラやねん


  中将の君、面(おもて)の色かはる心地して、恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あはれにも、かたがたうつろふ心地して、涙落ちぬべし。

古典セレクション「源氏物語」(小学館、校注・訳 阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男)から一部転載。

 

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語

 
 四月、若宮が内裏(だいり)にあがらはるん。生まれてもう三月目(みつきめ)やし、そろそろ、寝返りうったりしはるくらいなん。

 もう、ぎょっとするくらい光君にそっくりなお顔つきなんやけど、帝(みかど)さまはまさか、そんなこと、とは思いもよらはれへんから、
 「なるほどなぁ、ほかとくらべようもない飛び抜けた子ぉ同士は、こないな風に、通じあってきはるもんなんやなあ」
 とか、感心したはんの。もうかわいがってかわいがって、そばから一瞬も離れようとしはらへん。

 前にな、まだ小さかった源氏の君をお世継ぎにするつもりでいはったのに、世間がぜったい許しそうになかったし、皇太子にたてられずじまいになってしもたんを、いまでも残念に思ったはるんやんか。いっつも、臣下にしとくのがもったいないくらいの風采(ふうさい)、男前を目の前にするたんび、不憫(ふびん)で不憫で。

 それが今回は、立派な身分の母親から、同じくらい「光」あふれるお子が、飛びだしてくれはったわけやん。これこそ傷ひとつない玉や、そう思て、いとおしみはんの。光君にしてみたら、なんにしたかて、気ぃの落ちつく暇があらへんわなあ。

 例によって光君が、藤壺(ふじつぼ)の御殿で、管弦セッションやったはったら、若宮を抱っこした帝さまが出てきはって、
 「ようけいてる皇子のなかでも、こんなちいちゃい頃から、明け暮れ飽かずに会(お)うとったんは、光、おまえだけやったなあ。そやし、自然に思いだすんかもわからへんけど、ほんまによう、おまえに似とおる。ま、ちいちゃい頃は、みんなこんな風なんかもしらへんけどな」
 て、たまらん様子でかわいがらはんねん。

 光君、顔色の変わるんが、自分でもわかるん。おそろしい、申し訳ない、うれしい、切ない、こころがあちこち移りかわって、涙がこぼれそうなん。あぶあぶ、て赤ちゃん声で笑(わろ)てはんのなんか、ぞわっとなるくらいかいらしいねんけど、ただねえ、「こんなんに似てるんやったら、僕は、自分のこと、よっぽど大切にかわいがらへんと」とか思たはるんは、どんだけ自己中なんやら。

 そのそばで藤壺の宮は、つろうて、いたたまれへんで、汗でしとどになったはるん。光君のほうも、若宮に会えたら会えたで、かえってこころかき乱されてもうて、フラフラ退出しはんねん。

 自分の部屋へ帰らはって、ごろんと横にならはんねんけど、胸んなかがもう、どうしようもないん。よし、大殿(おおいどの)へいこ。お庭の植え込みが、なんや一面に青づいたあるなかに、はんなり咲いたある常夏の花、なでしこを手折らせて、命婦(みょうぶ)の君へ、藤壺の宮宛てに、ことばがあふれでるくらいの手紙、渡さはるん。

 「よそへつつ 見るに心は慰まで 露けさまさる なでしこの花(若宮になぞらえて眺めても、こころは乱れるばっかしで、露の涙に濡(ぬ)れてます、なでしこの花) 若宮に花咲いてほしいとは思うねんけど、僕らの仲はもう、どうしようもないんやんね」

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語
撮影・吉田清貴

 命婦はなんとか暇をみて、藤壺に手紙を見せて、「おねがいします! ほんの塵(ちり)くらいのお返事でも、この花びらに」て。藤壺の宮も深く、しみじみともの哀(がな)しさにくれたはったところやったから、

 「袖ぬるる 露のゆかりと思ふにも なほうとまれぬ やまとなでしこ(あなたの袖を濡らす露が、ゆかりと思うから、若宮をいとおしむ気持ちにはどうしてもならへんの)」

 とだけ、かすかな筆先の、書きさしみたいな手紙を、命婦は、喜んで届けはんの。「どうせいつも通り、返事なんかけえへんし」てふて寝したはったところへ、いきなり返事が届いたもんやから、光君、胸ざわざわ波打って、うれしいのはうれしいねんけど、涙もじわっとにじんできはんのんね。

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語

いしい・しんじ

いしいしんじさん
 1966年大阪市生まれ。京都大卒。主な作品に「麦ふみクーツェ」(第18回坪田譲治文学賞)、「ある一日」(第29回織田作之助賞)など。2009年から京都市在住。

【2017年09月25日付京都新聞朝刊掲載】