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(10)源氏の君って、軽すぎ、非道すぎな感じやんな


  女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るるをりなきころにて、心とけたる寝(い)だに寝(ね)られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚(ねざ)めがちなれば、春ならぬ木(こ)の芽もいとなく嘆かしきに、

古典セレクション「源氏物語」(小学館、校注・訳 阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男)から一部転載。

 

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語

 伊予介(いよのすけ)の若奥さん、源氏の君からもうなんもいうてきはらへんのを、せいせいしたわ、て思いながら、あのあやしい夢みたいな夜の出来事が、こころにとりついて離れへんの。気安うに眠れへんし、昼はぼんやり、夜は頭がさえてもうて、目の休まる暇がぜんぜんあらしまへん。反対に、さっきまで碁の相手しとった女の子は、ぺちゃくちゃしゃべり疲れて、隣でスースー寝たはるん。

 ああ、ほんまによう眠ったはる…。とそこへ、衣(きぬ)ずれの音と、えらいかぐわしい香りがただよってくるん。え? て顔をあげてみたら、ひとえの着物をうちかけてある几帳(きちょう)のすきまから、まっくらやねんけど、こっちへにじり寄ってくる気配がありありと。

 アカン、源氏の君や、アカンアカン! とっさのことで、考えもつかへん彼女、そっと起きあがると、正絹のひとえだけ羽織って、すっと外へ滑りでていかはるん。

 はいってきはった源氏の君、「お、ひとりで寝てる寝てる」。隣の長押(なげし)の下で、女房がふたり寝てるけど、そんなん完無視。かけぶとん押しやって、いそいそ添い寝しはる。

 「うん? なんか、前よりぷりぷり?」

 まさか別人とは思わはらへん。けど、ぐうぐう寝入ってる様子からしてちゃうし、じっくり見直してるうち、相手が誰か、だんだんにわかってきはるん。

 「しまった! やられたわ」

 けどなあ、人違いしたて感づかれるのんもかっこわるいし、この子ぉもへんに思うやんな。なんぼ本気の相手でも、むこうがこんな風に逃げるつもりなんやったら、たずねてきてもしゃあない。はは、僕、あほみたい。

 さっき灯(あか)りの下にいはったべっぴんちゃんやったら、ま、それはそれでかまへんか。

 て、これはちょっと、源氏の君、軽すぎ、非道(ひど)すぎな感じやんな。

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語
撮影・吉田清貴

 ようやっと目覚めはった女の子、なにがなんやわからず、ただ、びっくりしはるばっかり。この子は別に、深い考えや、いじらしいこころづかいがあるわけやないねん。けど、男女のこと、あんまし経験がないわりには、いろいろとものわかりがええ子で、子どもっぽくうろたえて騒ぐこともないのん。

 正体かくしとこか、て思わはんねんけど、「あとあとでこの子が、なんでこんなことに、て考えたとする…僕にとったらそんなん、どうでもええねんけど…ただ、あの冷たい若奥さんなあ、あんな世間体を気にしたはんのに、僕とのこと、この子に気づかれてもうたら、ちょっとかわいそうやんな」

 そう思いなおして、べっぴんちゃんのほうには、「じつはな、君に逢(あ)いとうて、ここまで来てもうてん。方違(かたたが)えは口実で」

 て、いつも通りの舌先芸。筋道たてて考えたらわかりそうなもんやけど、そこはまだ若い子ぉやし、ちょっと生意気なところはあっても、まだそのへんまでは、思いあたらへんの。かわいげがないわけやないねんけど、特別こころを寄せる気にもなられへん。

 「あーあ、奥さんの、この仕打ちって、やっぱ、ひどすぎるやんなあ。どこへ隠れて、僕を馬鹿(ばか)にしたはるんやろか。あんなきっつい性格、ほんま、ありえへんやろ」

 て、ぶつくさいいながら、結局、よう思いきらはらへんねん。反対に、目に前にいてるべっぴんちゃんの無邪気さ、ぴんぴんの若さに気がうつってきはって、さっきより情を込めて、ことばを重ねはるん。

 「公認より、秘め事のほうが盛り上がる、ていうやん、昔から。忘れなや。僕な、ちょっとした、はばかりごとがなくもないんで、気持ちのまんま、好き勝手ふるまうわけにいかへんねん。そっちもいろいろ許さはらへんひとがいたはるやろし、そう思うと、ああ、胸いたいなあ。なっ、忘れんと待っといてや!」

 とまた、適当なことをつらつらと。

古典に親しむ いしいしんじ訳 源氏物語

いしい・しんじ

いしいしんじさん
 1966年大阪市生まれ。京都大卒。主な作品に「麦ふみクーツェ」(第18回坪田譲治文学賞)、「ある一日」(第29回織田作之助賞)など。2009年から京都市在住。

【2017年06月05日付京都新聞朝刊掲載】