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(19)新京阪洛西線(長岡京市)

免許目的、実現性乏しく
かつての阪急長岡天神駅西口。ここに洛西線のホームができていたかもしれない(1980年、長岡京市)
かつての阪急長岡天神駅西口。ここに洛西線のホームができていたかもしれない(1980年、長岡京市)

 昭和天皇即位の式典を前に京都が祝賀ムードに包まれていた1927年、現在の阪急京都線長岡天神駅(長岡京市)から西に延びる路線が計画された。しかし実際には着工もされないまま、歴史のはざまに消えていった。机上のみ存在した路線を求めて長岡天神駅へと向かった。

 計画されていた路線は新京阪線(現阪急京都線)の支線「洛西線」で、長岡天神(当時は東長岡)-海印寺間の1・9キロ。新京阪鉄道を調べる府立京都学・歴彩館(旧総合資料館、京都市左京区)職員の若林正博さんにルートを案内してもらう。

 若林さんは大きく弓なりの曲線を描いた路線図を手にしていた。直線だと1・5キロの距離を遠回りするのが洛西線の特徴だ。

 路線は長岡天神駅から北に向かって駅前の商店街「アゼリア通り」や「セブン通り」を抜ける。川幅1メートル余りの犬川を近くに見ながら進路は次第に北西へとゆるやかにカーブを描く。

路線予定地のそばには洛西地域らしく竹やぶもあった(長岡京市天神3丁目)
路線予定地のそばには洛西地域らしく竹やぶもあった(長岡京市天神3丁目)

 青空の下、歩いていると若林さんが「この先に気になる場所があるんですよ」と言う。目前にマンション群「長岡天神ハイツ」が見えてきた。全18棟あり、整然と1棟から順に東西方向に立つなかで、15~18棟のみ斜めに立っている。

 「中でも、この15棟が路線とぴったり重なるんです」と若林さん。昭和初期の地図を見ても、そこに何かがあったわけではなく、偶然の一致らしい。マンションの土盛りを築堤に、電柱を架線柱に見立てると、今にも電車が走って来そうだ。マンション群の辺りが弓なり部分の頂点で、洛西線は方向を変えて南西に向かう。

線路予定地に建つマンション。電柱を架線柱に見立てると電車が走って来そうだ(長岡京市八条が丘2丁目)
線路予定地に建つマンション。電柱を架線柱に見立てると電車が走って来そうだ(長岡京市八条が丘2丁目)

 1920年代の日本は工業化が進み都市に人口が集中し始めた。都市住民たちは娯楽を求め、週末に郊外へ出掛けた。平安時代から景勝地として知られた嵐山が行き先として最適だった。

 その嵐山に新京阪は乗り入れようとした。しかし当時、新線敷設には鉄道大臣の免許が必要だった。目を付けたのが、京都電灯が着手しようとしていた嵐山-海印寺の区間。27年10月、免許を譲り受けた新京阪は桂-長岡天神を現阪急京都線経由とする形でこの区間の路線を計画した。

 昭和天皇即位の大典前日の28年11月9日、桂-嵐山間の嵐山線が開通した。しかし、その後も長岡天神-海印寺間は着工されず29年11月には計画が廃止された。

 計画路線は7世紀前半の大型古墳、今里大塚古墳や済生会京都府病院の南側をたどる。竹やぶの脇を抜けると奥海印寺通りに出た。

終点の「海印寺」駅予定地付近。ターミナル駅ができていれば風情があったに違いない(同市奥海印寺)
終点の「海印寺」駅予定地付近。ターミナル駅ができていれば風情があったに違いない(同市奥海印寺)

 近くで農作業をしていた藤井昇さん(77)に、新京阪の計画について尋ねた。「京都電灯の構想は聞いたことがあるが、新京阪は知らない」と話す。京都電灯が用地買収を進め、農家の中にはこれに応じるため所有地を分筆した人もいた。しかし、新京阪と地元住民の接点はなかったという。

 藤井さんの話を聞き終えた若林さんは言う。「新京阪はやはり、嵐山延伸の免許が欲しかっただけのようですね」。京都電灯の計画が綿密だっただけに、免許を継承した新京阪も実現に向けて動いてほしかった。

新京阪洛西線

新京阪洛西線

 現在の阪急京都線の支線で長岡天神-海印寺を結ぶ計画だった路線。新京阪は1929年10月の路線計画廃止に先立ち、長岡天神駅から柳谷観音楊谷寺を結ぶバス路線開業を申請した。バスは長岡天神駅から2キロ余りの新設の専用道を走る計画だったが、この専用道も実現しなかった。

【2017年09月08日掲載】