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橘宗吾氏 名古屋で学術書を編集する

橘宗吾氏 たちばな・そうご 1963年生まれ。89年から人文学、社会科学など学術書を編集。手掛けた書籍の出版・学術関連の受賞多数。全国の大学出版部で構成する「大学出版部協会」理事も務める。


 学生時代、京都に住んでいた。東京の友人と話していて、「地方から見るとそうかもしれないけれど」と言われたとき、はじめは、「地方」という言葉で京都を指していることがまったくわからなかった。どこでもそうかもしれないが、特に京都在住の人間は、地方という自意識をあまり持っていないだろう。
 さて現在は、名古屋を拠点に学術書の出版をなりわいとしている。そうすると、「地方ネタ」を求められることがあり、それに関心を示さなければ、たいていは嫌がられる。大学ですらそうなのだ。なにしろ文部科学省からして、多くの国立大学に、所在する地方への貢献を課しているのだから。
 しかし、知識に地方との関わりがあるとしても、そのような意味ではない。昨年上梓(じょうし)した「学術書の編集者」(慶応義塾大学出版会)でも述べたように、知の担い手が時間と空間を限られた身体をもつゆえに、ひとたびは言語や慣習や性別などに拘束されてしか、あるいはそれらを揺り籠としてしか、知を生みだしえないということだ。
 それが広い意味での文化というものであり、例えば「世界的な共通語」とされる英語で書く場合のように、一見そうした拘束を免れていると見えることがあるとしても、けっして免れてはいないのである。そして、そうした文化のなかで生み出されたものを、より開かれたものにしていくことに、出版というものの重要な役割があるのだと思っている。
 それはまた、たんに機械的に開くこととも異なっている。インターネット空間でのように「世界に向けて発信され」多くの人に「開かれ」ながら実は誰にも読まれずに遍在する(ユビキタスな)情報とは異なり、上記のような拘束すなわち自文化を超え出るという意味での、普遍的な(ユニバーサルな)知をめざすことが大切なのである。これはいわゆる一神教の想定する普遍性とも異なる。神ならぬ身が正しいと思うところを、絶対のものとしてではなく、すなわちせいぜい部分的な真理にすぎないものとして、ひろくアカの他人に、可能なかぎり練り上げて、伝えようとする努力と工夫、とでも言えばいいだろうか。
 その成果としての書物の言葉は、けっして一気に、世界同時に、ゆきわたるものではないが、人をワクワクさせることを通して、ゆっくりと読まれ、それぞれに考えられていく。必要ならば翻訳を介して、また物としてのかたちも変えつつ。
 私は、地方からの出版とはそのような意味だと思う。

(名古屋大学出版会専務理事・編集部長)

[京都新聞 2017年05月26日掲載]