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末次智氏 島尾敏雄、ヤポネシアの原点

末次智氏 すえつぐ・さとし 1959年生まれ。琉球文学、うたの文化専攻。2012年、沖縄文化協会賞仲原善忠賞受賞。著書に「世礼国男と沖縄学の時代 琉球古典の探求者たち」(森話社)など。


 今年は、作家島尾敏雄の生誕百年目である。また、その妻ミホ没後10年でもある。二人の関係を作品として描いた島尾の代表作「死の棘(とげ)」(1977年)で、現代文学史上最もよく知られる夫婦となった二人についての著作が話題となり、関連映画の公開や記念イベントもある。
 その中で、島尾の新たな一冊の本が刊行された。それが『琉球文学論』(幻戯書房)で、これは、1976年に多摩美術大学で行われた集中講義の記録である。しかし、講義録に途中まで手を入れていた島尾が、自分は研究者ではないから、刊行はやはり「恥ずかしい」と判断し、原稿のまま眠っていたものである。
 島尾敏雄には、知られているように、1961年に初めて発表された「ヤポネシア」という造語がある。この語は、日本列島を島々の連なりとして対等に見ていこうとする発想を示す。これは、その後思想家や歴史家等に受け入れられ、展開されていった。この講義の行われた頃は、それがある程度定着した時期だと言えるかもしれない。
 講義のテーマとなっている「琉球文学」は、主に奄美・沖縄の前身琉球国で展開された文学のことである。75年まで20年間奄美大島本島に住み、そこを含む奄美・沖縄をヤポネシアの中の琉球弧という呼び方で、文化的なひとつのまとまりとして捉えていた島尾にとって、その固有な表現群はまさに文学的な実在としてそれを証明するものでもあった。
 だが、意外なことに、本書では、「ヤポネシアとはあまり言いたくない感じ」だと島尾は述べている。私は、そのことに疑問を抱く一方で、「今いうのが恥ずかしい」とも言う島尾の感性に共感してもいる。ヤポネシアの発想は、島尾の奄美大島での家族や人々との生活感覚と切り離せない。彼の琉球弧についての文章を読むと、それ抜きのヤポネシアはあり得なかったことがよくわかる。
 島尾の上記の言葉は、当時、これが「ヤポネシア論」として一人歩きしてしまったことへの生理的な反発だと思われる。これに対して本書の編集者はあえて「日本列島弧」という別の語を帯に拾い出している。島尾が講義で初めて口にしたこの語は、自らも含め、「ヤポネシア」で国家論までをも視野に入れることで、それを生活から離してしまったことへの反省、そしてあらたな提案として受けとめるべきではないか。
 文化のグローバル化が進む現代、私たちは、「ヤポネシア」の原点、とくに、奄美群島で今もシマと呼ばれる小さな共同体、その中で自然や人々と共に生きた島尾の感性を見直すべきではないかと、私は考える。

(京都精華大教授)

[京都新聞 2017年06月23日掲載]