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野口文氏 音二郎、京と博多結ぶ演劇家

野口文氏 のぐち・ふみ 1960年生まれ。89年福岡市入庁。福岡市博物館で「戦争とわたしたちのくらし」、開館10周年記念「川上音二郎と1900年パリ万国博覧会展」などを担当。2007年から現職。


 皆さん、川上音二郎忌ば知っとんしゃあ?(博多弁で「川上音二郎忌を知っていらっしゃいますか?」)
 川上音二郎の祥月命日である11月11日、出身地博多では音二郎忌の法要が行われる。音二郎の墓は、博多商人であった実家川上家の墓所とは別の、博多の歴史ある禅宗寺院萬松山承天寺にあり、法要はその仏殿で、毎年ご住職らの読経の中、荘厳な雰囲気で行われる。
 音二郎が亡くなった明治44年は、西暦1911年である。日頃から大言壮語的な言動があった音二郎ではあるが、この日を選んだわけではあるまい。結果として一が六つ並ぶという日に亡くなった。人生の最後まで「持っている」人である。
 音二郎は、明治時代後半に日本と欧米で活躍した演劇家である。もとは自由民権運動の壮士で、度々官憲に拘引されていたようだ。大きな転機は、1900年パリ万国博覧会で公演したことで、折からのジャポニスムの流行に乗り、舞台に立った妻の貞(貞奴)が「マダム・サダヤッコ」ともてはやされたのも有名だ。その評価は二分され、革新的という向きもあれば、誤った日本イメージを欧米に与えたという批判もある。
 音二郎と京都とのつながりはと言えば、壮士時代の明治16(1883)年に遡(さかのぼ)る。過激な政府批判により1年間国内での政治論議を禁じられたのは京都の地であった。
 しばらくは鳴りを潜めていたようだが、期限がくるとまた活動再開。明治18年再び政談演説を禁止されると、今度は講釈師として再出発。転んでもただでは起きない。この時期の新聞には「西京にて有名なる自由童子」などと報じられており、活動の場が京都であったことが窺(うかがえ)える。
 その後、時事や世相を風刺したオッペケペ節で一世を風靡(ふうび)、次いで壮士芝居一座を立ち上げた。初め横浜や東京で活動し、人気を博していたが、明治25年満を持して京都へ乗り込む。興行先は四条の南座。最中に博多の父親が亡くなる不幸もあったが、公演は好評で、第二の故郷に錦を飾ることとなった。音二郎にとって京都は常に始まりの場だった。
 音二郎と貞奴の破天荒な生き方には今も理解しがたい部分が多い。しかし音二郎が日本演劇界に残したたくさんのもの、興行時間短縮、女優登用、専用劇場や俳優養成所設立などは、現在の演劇興行の基礎となっており、彼の革新性は、もっと褒めてもろうてもよかろうもん(褒めてもらってもよいのではないだろうか)。

(福岡市総合図書館学芸員)

[京都新聞 2017年11月17日掲載]