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(4)激動の60年代

もがく若者行き交う

三男の信念、経験根底に

亡くなる直前に六曜社を訪れた高田渡さん(奥野修さん提供)
亡くなる直前に六曜社を訪れた高田渡さん(奥野修さん提供)
喫茶店「六曜社」で1杯ずつコーヒーをたてる奥野修さん(京都市中京区)
喫茶店「六曜社」で1杯ずつコーヒーをたてる奥野修さん(京都市中京区)
高田さんが修さん宛てに残したメモ
高田さんが修さん宛てに残したメモ
 1960年代後半。喫茶店「六曜社」(京都市中京区河原町通三条下ル)を営む奥野さん夫妻の三男、修さんは京都の高校を中退し、東京・新宿で群衆の中にいた。「高校ぐらい出ろ」。父、実さんの反対を振り切って一人、上京した。

 安保闘争やベトナム戦争を受け、学生運動が高まっていた。新宿駅西口の地下広場では、ギターを持った若者たちがフォークソングを熱唱しながら、反戦を訴えていた。「フォークゲリラ」(※1)だった。ラジオで聴いたボブ・ディランの音楽に引かれ、ギターで歌うようになった。自分の目で社会の実相を見たいと思った。漫画雑誌「ガロ」で読んだ「フーテン」の世界への憧れもあった。

 「駅の地上では、たくさんの若者がシンナーを吸っていた」。京都にはない、すさまじい熱量に圧倒された。

 路上で知り合った北海道出身の若者と2人で、新宿に3畳一間のアパートを借り、広告板を体に掛けて街頭に立つサンドイッチマンをして暮らした。

 当時、新宿の若者たちが拠点に使ったのが喫茶店「風月堂」(※2)。髪の長い彼らは、たばこの煙の中で静かに読書していた。

 「東の風月堂、西の六曜社」。両親が営む六曜社にも、もがく若者が行き交っていた。

 立命館大の学生だった20歳の高野悦子は69年、六曜社に何度も足を運んだ。日記(※3)にこう記した。

 <「ろくよう」に独りで呑(の)みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣き笑いのふしぎな感情ですごした>

 六曜社はこの頃、1階で喫茶、地下では夜に居酒屋「ろくよー」を営業していた。

 <あのウェイターのおじさんにDo you know yourself?と、いったら、Yes,perhaps,I know myself.-といった。私はI don’t know myself.と、いって笑った>

 高野はこう記した2カ月後、踏切に飛び込んで自殺した。

 フォークシンガーの高田渡は同じ年、17歳で東京から京都に居を移した。まだ無名に近い日々、関西フォークの地で2年を過ごす。六曜社でコーヒーを飲みながら長い時間を過ごし、本を読み、仲間と語り合った。

 修さんは東京で数年暮らした後、京都に帰る。友人からロックを流す喫茶店をやらないかと誘われ、堺町通錦小路上ルで喫茶「名前のない喫茶店」のマスターをしばらく務めた。その間、自主制作のアルバム「オクノ修」を発表した。東京でもバンド活動をしたが、やがて解散し、再び京都に戻った。

 「ふらふらしてるなら店を手伝ったらどうや」。父の実さんから言われ、70年代、20歳を過ぎたぐらいから店に入るようになった。皿洗いから始め、コーヒーの奥深さにのめり込んでいった。

 休日を使い、自家焙煎(ばいせん)コーヒーを世に広めた功労者として知られる東京・山谷の「カフェ・バッハ」を訪れた。その味に驚いた。試しに東京で少量の生豆を買い、持ち帰って、ぎんなんを焼く手網で煎(い)って自家焙煎の研究を始めた。

 80年代から地下の喫茶を任された。自家焙煎の1杯仕立てのコーヒーで徐々に固定ファンを引き寄せた。

 63歳。今も「オクノ修」としてライブで自作曲を歌う。飾らない中に、断固とした芯を持つ歌声を響かせる。「僕にとって音楽は仕事ではなくて生きることなんです」

 高校時代から交流が続いた高田が10年前、ふらっと店に現れた。ウイスキーのロックはやがて、持ち込みの日本酒に移り、つぶやいた。「好きな音楽をやってきて本当に良かった」。たとえ歌が売れずに貧しくても信じた道を進む-。修さんの心に響いた。高田はその数カ月後、公演先の北海道で亡くなった。

 修さんは店を終えて毎晩、実家にある小屋で生豆の焙煎に数時間を掛ける。こだわり抜いたコーヒーは今ならもっと高価で出してもおかしくはない。だが500円を維持している。「僕は生活者のためのコーヒーを出し続けたい。それは60年代の経験が根底にあると思います」

※1 ベトナム戦争中の1968年ごろから東京や大阪などで開かれた市民や学生による反戦集会はフォークゲリラと呼ばれた。駅前広場などで反戦歌が歌われた。新宿駅西口広場では約1万人が集まり、69年には機動隊が出動。逮捕者が出て以降は下火になった。

※2 戦後の新宿文化の象徴となった「風月堂」は名曲喫茶の先駆けとされ、多くの文化人たちが集った。1960年代にはベトナム反戦運動家たちの拠点にもなったという。73年に閉店した。

※3 自殺後、遺族が下宿先で大学ノートを見つけ、「二十歳の原点」(新潮文庫)として出版されてベストセラーになった。1969年1月から同年6月までの日々がつづられている。


【2015年8月22日掲載】